Hamburg
taz Hamburg, 3/Sept. 2001
廃墟の中の身体
アルバロ・レストレポと劇団解体社 カンプナーゲルにて
Marga Wolf
現代演劇における身体の誕生、消滅、再生についての講義が、演劇批評家であり来期のラオコーン・フェスティバルのキュレーターである鴻英良によってなされた。今日劇場に溢れているのは、傷を負い、病んだ身体である。エイズの身体。遺伝子の組織体系にまで科学的に類別されてしまった身体。物理的にも精神的にも解体され、時空間に関わりなく勝手に動き、孤独かつ冷酷であり、侍の精神力によってコントロールされている身体。
「劇場は戦場である」と演出の清水信臣は語る。男女10人のダンサーから成る劇団解体社は、『バイバイ/未開へ』において、この世の戦争のすべては彼・彼女らの体に深く染み込んでいるかのようなイメージを伝えている。東京から来た劇団解体社のフィジカル・パフォーマンスと、ワールド・プレミアであるアルバロ・レトロスポの美しい夢の世界『テトラロジアーコロンビアの一風景』は、不手際に終わったラオコーンのオープニングを埋め合わせ、カンプナーゲルにおけるゴルダナ・フヌークの方針を見事に指し示していた。
劇場空間の静寂は重苦しい。目隠しをした男が、手錠をかけられたまま、微動だにせず立っている。押さえ込まれたその体は闇の中で呼吸し、女の痙攣的な動きからもたらされる震動を吸収してしまうかのようだ。本能的に動き、猫の様にしなる彼女は、しばらくの間、四つ足で歩く。あたかもその体が千個の新たな断片へと再組織されてしまったかのように、そしてそれらの断片は多分もう二度と認識されることはないのだが、がたがた、ぴくぴくと立っている。
男の方へと向かう女の道も閉じられている。登場人物達は幽霊のごとくゆっくりと動く。無表情な顔つきは、痛みと苦しみに関するすべてを知り尽くしてしまったかのようだ。内へと歪む手足は、時に舞踏を想起させるが、15年前に旗揚げされた劇団解体社の手法は、西洋現代ダンスのコレオグラフィック言語により近く、それらを切り詰めた形で用いながら様々に応用している。
耳をつんざくようなノイズが、死んだような沈黙を破る。次に兵隊や戦闘機、投下される爆弾といったイメージが明滅する。戦争の神であるマルスの女性によって表象され、羽のついたかぶとを被って劇場を旋回する。血塗れの兵士が彼女の灰色の背中に加える強打でさえ、彼女を止めることは出来ず、受け入れられることもない。犠牲者も加害者も清水信臣のアレゴリカルな世界観においては悼まれることはない。世界観そのものは、非常に敏感なパフォーマーの身体によって表明されるのみである。強い照明の下、張りつめて震える身体は、荒廃した風景のようにも見えると同時に壮烈に強く、また哀れにも弱々しいものにも見える。
身体の脆弱さは、アルバロ・レストレポがその世界像の源としているものでもある。だが彼は、解体社が意図的に引き裂いた傷を癒したがっている。観客は魔法のような景観によって場面が開けた瞬間、息を飲んだ。かのコレオグラファーは、その神秘的なヴィジョンを舞台上に植え込んでいた。
闇の地に砂でできた迷宮が浮かび上がる。光が天井から水滴のように垂れ落ち、それらの仄かな輪が規則的なリズムで中頃から先端へと流れていく。音と歌が空間を満たし、芳香と溶け合う。声が水から生まれた世界創造の話を語る。この古のインドの神話は『蛇のカヌー』と呼ばれるものである。ダンサーのマリー・フランス・ドゥリューヴァンは小さなガラスの瓶に満たされた青く閃くボートに乗り、その膝に水晶体を置いている。レストレポは、照明のセルジオ・ペッサンハの助力を得ながら、魂の風景を描き出す。浅黒い肌を持つダンサー、ジェイエ・カンビンボは、この大地をまるで野良猫のように歩き廻る。彼は猟師から兵士へと変化し、ついには獲物そのものとなってしまう。夜のごとく肌を黒く彩り、赤い印をその奴隷の胸に付け、血に染まった心臓が脈打つ大地と一体化する。--母であり、娼婦であり、聖処女であるスタバート・マーテル。女優ロザリオ・ジャラミーオは、グロテスクなブードゥー教の魔女の姿でカトリック教会の苦行にあらがう。赤色に覆われながら、彼女は自らドレスを引き裂く。ライトがその白い胸を照らし出す。
レストレポはこの場面において、単に異文化間の和解に留まらない人間性の奥底に迫る何かに触れていた。レストレポ自身は4部からなるソロ・ピースの最後に巨大な藁帽子を被ってダンスをした。彼は運動と未来について語っているのだ。

Hamburger Morgenpost, 3/Sept.2001
ラディカルな身体演劇
飲み込み難し:劇団解体社(日本)ラオコーン・フェスティバル
Dagemar Fischer
低速度の芝居の発見は、日本に由来するものとしばしば指摘される。600年の歴史を誇る能も舞踏も、静止の状態とほとんど区別がつかない身体運動からその強度を引き出している。日本の劇団解体社は舞踏の要素を使いながら、同時にピナ・バウシェのダンス・シアターやマース・カニングハムのアイデアの影響をも取り込んでいる。解体社の作品『バイバイ/未開へ』はカンプナーゲルでヨーロピアン・プレミアを飾った。
白いレオタードと浴用キャップを着けた女が舞台でよろめく。女の体は動きそのものによって操られているようだ。古代時代に生きた人間のようにも見える男たちが火守の周りで蠢き、燃え立つ炭を奪おうとする。痩せた上半身裸の少女が、精神的かつ肉体的衰弱の限界で震え揺れる。
一連の場面におけるすべての人々は壊れやすく、あるいはすでに壊れていて、その身体は機能不全に陥っており、誤ってプログラムされた人工生物のように見える。のろのろとした低速度の動きは、背後の壁に高速度で投影されたフィルムをより一層暴力的に見せる。戦争や落下してくる原水爆弾の映像が、観客席という擬似的に用意された肥沃な土地の上に降りかかってくる。
ラディカルなフィジカル・シアターの演出家である清水信臣は、日本において激烈な抗議にあっている。役者が見せる自己攻撃的な行為は、直接的にして捉え難い暴力同様に確かに飲み込み難いが、それらは社会批評として目論まれており、唯一の可能性のある方法のようにも思える。感動した観客から大きな喝采が起こった。

Hamburger Abendblatt, 3/Sept. 2001
カンプナーゲルにおける日本:驚異的なイメージ
Monika Fabry
「ラオコーン・サマー・フェスティバル」の開幕を害のないブランカ・リーの『ナナとリラ』で飾ったことは、誤算であった。アルバロ・レストレポの『テトラロジアーコロンビアの一風景』と日本からの劇団解体社のヨーロピアン・プレミア『バイバイ/未開へ』は、観客をより困難な状況に置いた
東京からのゲストは、身体的、心理的忍耐力の限界を試す、そのラディカルにして野蛮でさえある「身体の演劇」において評を得ている。「解体社」とは文字通り「解体の演劇」を意味する。観客が80分間に見るものは、まさに解体されているのである。
身体における攻撃性は、常に隠されながらもあからさまに表現されているが、精神的衝撃や憔悴に比べるとそれほど表面には出て来ない。ミニマリスティックな、時にほとんど微妙な身体言語によって、最高度の集中力を要求しながら、演出家の清水信臣はこの世界の真に恐るべき光景を描き出す。
清水は、人類の混乱した状況のメタファーとして、ショッキングな大音響の戦争ヴィデオを繰り返し混ぜ合わせる。舞台ではマルスのヘルメットを被った女性ー戦争のアレゴリーが犠牲者たちの間を廻っている。犠牲者たちは半裸で、包帯を巻かれ、手錠でつながれ、肉体的にも精神的にも憔悴している。動物のように彼・彼女らは四つ足で前進する。ようやく生き残った者たちが住む世界。厳しく、孤独で、感情もなく、自己破壊的である。「感情を押し殺せ。己の法を成せ。己の思考を検閲せよ。己を偽れ。新しき奴隷となれ。」錯乱した世界のシニカルなメッセージは、現代の黙示録である。
ぞっとするような悪夢は、無慈悲なまでにゆっくりと、不断の繰り返しのなかで希薄なイメージを打ち砕く。多くのことは極東の精神に基づいていて、非知的、神秘的、精神的であるがメッセージは明らかである。ー私達は呪われている。救われる望みはほんの僅かである。

Suddeutsche Zeitung, 3/Sept. 2001
歩行する病
カンプナーゲルの新たな始まり:ハンブルグ、「ラオコーン」フェスティバル
Arnd Wesemann
コロンビアにある架空のある部族が、奇妙な病に取り憑かれている。眠ることができないのだ。日が他の所より8時間長く手足が鉛の様に重く疲弊しているために、すべての動きが非常に遅くなってしまう。住人は白昼夢に甘んじている。仕事はすでに終わってしまったかのように思え、眠りそのものがいつも眠りに就いてしまっている。すぐに他の兆候も現れてくる。村中の人が、「かなとこ」や「戸」といった簡単な名前を忘れ始めたのだ。そこで当初村人は「かなとこ」や「戸」といった単語をメモに書き付け、物自体に張り付けて名前を忘れないように努めた。しかしながらその部族は、己の言語そのものを忘れ、メモを読むことすらできなくなってしまった。忘却とは、幸運である。舞台は、静かなる飢餓状態で終わる。
この物語は、コロンビアのコレオグラファー、アルバロ・レストレポによる驚くべき演技によって始まる。彼はコロンビアの血の混じる人々から神話を集め、それをダンスと語りを交えた一風変わった儀式形態で語り直した。マリー・フランス・ドゥリューヴァンは、ぞくっとする神聖なダンスでインディアンの創造神話を語る。褐色の肌をしたジェイエ・カンビンボは不思議な集中力を見せ、その筋骨たくましい体を黒く染め、アフリカの起源を夢見る。ロザリオ・ジャラミーオは赤いチュニックに身を包み、スタバート・マーテルの音色に乗せて、カトリックの征服者からブードゥーの司祭へと変貌する。アルバロ・レストレポは最終部で巨大なネットを使って、眠りに憑かれた手足を動かすかの様に静かに、日曜日の遅い目覚め様に怠惰にダンスをする。こうなると、上演時間は軽く4時間を超すことになる。
レストレポの演劇は安楽な夢中歩行であり、恐らくは初期の演劇史に印された極簡単な言葉を思い出そうとする試みなのだろう「儀式」や、「ダンスによる解放」、「因習打破的な演劇」といった単語が忘れられて久しい。
カンプナーゲルの新時代を刻む初日は、93年にビアンカ・リーによってなされたコレオグラフィーで殊更穏やかに明けた。
ベルリンのKomische Operのマスターに新たに任命された彼女の舞台は、明らかに女性客のみを虜にしただけであった。『ナナとリラ』は、モロッコのバンドGnawa Halwaという陶酔的な火花をバックにしたビアンカ自身と他の8人の女性ダンサーのために、表向きワイルドな振り付けを施していた。男たちの音楽によって加速度がつき、ダンサーたちは恍惚状態に陥るものの、すべては管理され、事細かに計算され、厳密に動きが決定されていた。何の誤ちもないが、舞台はまるでクラシックの訓練を受けたバレエ・ダンサー演じるフラメンコのように見え、結果として初心者だけにエクスタシーを与えるものに見えた。
「何だこれは!」とカンプナーゲルの取り巻きは叫んだ。「大したものじゃないか、出鼻から」と常連客やスペシャリスト、スタッフといった、普段だったら怠惰に親指を上げ下げしてみせるだけの輩が腹を立てた。劇場が「彼/彼女たち」、つまり「全額料金の客」と呼ばれる観客のための作品で開いてしまったからである。ゴルダナ・フヌークは「彼/彼女たち」を挑発するかのようにかき抱き、ささやく。「魅了される必要もなければ、ダンス、アヴァンギャルド、実験的演劇といったものを教え込まれる必要もさらさらありません」。このやり方こそハンブルグ市民を満足させるものであり、市民が殊更気にかけている点である。
現時点において、8年前に創られ、オフ・オフシアターで上演された古い傑作に頼ることは、高額な補助金に支えられたレパートリー劇場にまで身を落とすことのように思える。しかしながら、赤い髪をしているからといって、ゴルダナが狡猾な狐という訳ではない。彼女はビアンカ・リーの作品でいわゆる大衆嗜好をなだめ、アルバロ・レストレポの作品で観客を夢が失われるまでの4時間のトランス状態に置く。彼女は観客を掴み、摘んだり抓ったりする。まさに、見ることの愉悦。そこへ日本のアヴァン・ギャルド集団、劇団解体社によって基本路線へと帰せられる。デュッセルドルフのタンツハウスと、フランクフルトのマーゾンタームでも9月半ばに上演される予定の作品『バイバイ/未開へ』は、文字どおり爆弾である。
劇中、灰色のネズミが完全な裸舞台に歩み出る。レンブラント風の金色の兜を被った少女の体は灰色に塗られ、ネズミの尻尾が下着に縫い付けられている。彼女は静かに舞台を横切り、ハラキリナイフを振り上げて、日本人にとっては地獄の三指令とみなされる「働くな、買うな、産むな」を吟唱する。この灰色のネズミは、世界のストック・シェアの動きに対応し、往々にして逃げ口上をとる島国同胞の危険な静止状態を管理するのに暇のないアメリカ人に監視されている日本人である。静寂の中、そんな同胞の心臓音を聞くことができるかもしれない。けれどもマシンガンの嵐が突如吹き荒れ、テクノの雷鳴が響き、アメリカの国旗とともに戦車や原子爆弾のビデオ投写が始まる。内へと向かう自己消費的な恐怖という信じがたいスタッカートの中で、全てを貪り尽くす戦争が繰り広げられる。
劇団解体社は、目下最も重要な日本のアヴァン・ギャルド集団である。その作品は、ヤン・ファーブルの白黒の初期作品の一つを想起させる。演出家・清水信臣も白黒と沈黙を使っているが、直ぐさまそれらは音響によって引き裂かれる。ダンサーたちは震える脅威であり、立ち尽くす肉体であり、帝国主義的な敬礼をするために掲げられる腕である。劇団解体社が初めてヨーロッパを訪れ、ゴルダナ・フヌークが未だ支配していて今後も監督していくであろう、かの地ザグレブで行われたユーロカズ・フェスティバルでスキャンダルを巻き起こしたのが、1996年である。その時は観客が舞台に押し寄せ、ダンサーたちを保護しようとした。なぜならむき出しの腿や背中を半時間以上掌で打ち続け、表皮から血が浮き上がる程であったからだ。今回、清水信臣はそこまで極端に行くことはないかもしれない。だが、この作品は、カンプナーゲルが将来再び国際的なアヴァン・ギャルド演劇の中心となることを確信させてくれるだろう。


Ballet Tanz Aktuell, Oct.2001
いかに日本人が我々にグローバリゼーションを突きつけるのか
Klaus Witzeling
現在、日本で最も重要なダンスグループがヨーロッパツアーを敢行。クラウス・ヴィッツェリングがフランクフルト・デュッセルドル
フ公演に先立ち、ハンブルグ「ラオコーン・フェスティバル」のオープニングを飾った、センセーショナルなツアースタートを観た。
半裸の若い女性が、根が生えたようにそこに立っている。右手が時折ぴくっと動く。腿の内側の筋肉が震え続けている。何分もの間。ベトナムの少女がショックで泣きながらカメラにむかって走ってくる写真が脳裏に浮かぶまでには更に時間がかかる。記憶の中に燃える、一枚の忘れがたい写真。しかしすぐに忘れてしまいたい写真。日本のカンパニー劇団解体社が、ラオコーン・サマーフェスティバルのヨーロッパ初演『バイバイ/未開へ』で、それを容赦なく記憶に呼び戻し、観客を回想の中で改めて戦争犯罪の無力な目撃者にする。
この身体パフォーマンスの観客は、途方に暮れた無力感にそれ以外にも何度か襲われる。薄暗い中で男性の集団が一人の女性を追い立てる。彼らの身体は暴行的抱擁で思い切り衝突する。やがて戦闘ヘルメットをかぶった別の女性が登場する。長い尾をつけ、ねずみ色に塗られ、パンツしか身につけていない身体が、ナイフを機械的な反復で、攻撃するように振っているにも関わらず、生気なく見える。単なる非情な戦争マシーン。彼女の背中は、パートナーのちょうど20回の平手打ちに耐え、その度に口からは叫びの代わりに紛争や内戦、ジェノサイドに悩まされたヨーロッパや第三世界の国名が吐き出される。
舞台上で沈着かつ無情に遂行される暴力行為は、皮膚の下で不快に這い回る。夕方のニュースの恐ろしい映像の時のようにチャンネルを変えることはできない。一人の若い男性が、皮膚が破れんばかりに掌で太腿を絶え間なく叩き続ける。感覚を無くした身体や麻痺した感覚器に再び感覚や命を吹き込もうとするかのように。
トラウマを受け麻痺したこれらの人間。生きる屍。彼らの四肢は切断され、身体は傷つけられ、包帯に巻かれ、義足をつけている。『バイバイ/未開へ』は、苦しいほどにゆっくりかつ静かな動きのイメージで、身体を戦場として提示している。そして演劇を戦争として。
「それらは身体を利用し、かつ消費可能にするのです。」と演出家の清水信臣は言い、「解体の演劇」(文字通りの解体社の訳)の中で、その作用を証明しているーそこでは、戦争に駆り出される身体、戦争を生き延びた身体を見ることができる。聴覚・視覚的に、映像シークエンスで戦争地獄が表現されている。そして嵐の後再び、致命的静寂が支配する。無言で指令がスクリーンに流れる。戦争が終結する中、全てが新たな未開へ、そしてメディア網に連結され、グローバルに操作された湾岸戦争における感情の荒廃へと向かう序章である。
彼はもともと役者かダンサーになりたかった。しかしその後彼の計画は変わり演出家へと向かった。1985年、清水信臣は劇場の外に出た。型にはまった演技やタンスを無効化するために移動型(野外)演劇を始めた。『TheDriftingView』の上演の一連では、観客は役者と共に野原や河原、公園を歩き続けなければならず、身体を媒体オブジェとする"Theater of Images"を体験した。湾岸戦争やルワンダの民族虐殺におけるメディア体験やエイズ、グローバル化、インターネット革命による社会的、政治的変化が、清水を更なる芸術的転機へと導いた。
しかし清水にニヒリスティックなペシミストの烙印を押すのは、彼を誤解することになる。彼は、過去に隠蔽された問題や、明白な暴力行為としての政治あるいはメディアが、公の意識の中に残した痕跡に固執している。「均質に見える日本社会というのは完全に幻想です」と彼は言い、公には無視あるいは沈黙させられている多文化地区や移民ゲットーで、貧困や社会的緊張が支配する、東京内の南北問題を挙げている。現代の「日本演劇界のロマン主義的リアリズム」は、民主主義や平和主義の仮面に隠れた温和で反動的、排他的な演劇であるらしい。彼はそれに対しラディカルな身体演劇で挑発する。その表層を解体し、皮膚の限界である甲羅の下に入りこもうとし、個人史、社会史の記号的身体カリグラフィーの記録を剥き出しにする。
彼は、彼の身体演劇の中で皮膚をテーマとしている。パフォーマーが叩いたり、身体の内側と外側の皮膚の線を柔らかくするようなことを、「私はメソッドとは呼びたくありません。なぜならグループのメンバーは皆、それぞれの神経系を持っているからです。それぞれダンサーなり役者なりの異なる訓練や身体コンディション(体質?)を持っています。それを活性化するために、一人一人に合った方法を見つけるよう努力しています。」彼は現在 「幻影体」に取り組んでいる。「それはファンタジーです。切断された足の動きや四肢を失った生きた身体の感覚が我々の知覚システムに再び明らかになる。神経が身体システムの中でどのように作用するのかを正確に知りたくて、研究しています。」稽古の過程は見かけ上は混沌としていると清水は言う。「私は様々なインフォメーションを実験しています。一つの音やテーマなど、一つ要素を与え、杭を一本一本列になるまで打つ、その発見の過程を動きに促していくのです。一つのフォルムから、いわば次のフォルムを見つけることができるのです。」
芸術的展開の中で、一般には誤って理解されていると彼が言う、土方巽、そして解体社のスタイルに転化したマーサ・グレアムのコントラクトの技術やピナ・バウシュのダンスが彼に影響を与えた。「彼女は私に、ジェンダー問題、男女関係の問題性を意識させましたが、彼女から影響されているとはいえません。我々は、我々以前の芸術家を知り、彼らがモダン以後、身体をどう理解し使用してきたのかを知らなければなりません。歴史の知識は私にとっては不可欠なのです。」日本演劇の身体認識は、先世紀の後半、幾度となく変化してきた。1960年代、身体存在が舞台上でテーマ化されたが、20年後には身体存在の可視的シグナルは再びタブー化した。「身体は、そこに存在しているにもかかわらず、舞台上で消えたかったのである。」と演劇批評家で来期のラオコーンフェスティバル・ディレクターである鴻英良が語っている。
清水は彼の実験劇団ー解体社を始めた時、まず全ての自然主義的動きを除外した。「現実を見つめようとする芸術家は現実を見失い、単に幻想を模倣する」と彼は思っている。こうして役者と身体はオブジェと化した。松本雄吉の三次元巨大画のように。大阪の舞台建築家である彼は1985年に維新派(更新の意)を創設した際、劇場をも改良しようとした。彼は造形美術出身で、関西の具体グループの行動主義に影響を受け、壮大で音楽的な野外演劇を始めた。およそ50人からなる維新派の大集団は、様々な上演場所、使われていない鉄道やドックに、木造の宿を建て、厚板、柱などで巨大な舞台インスタレーションを造った。松本は清水同様集団と個人の記憶、歴史、大都市世界、日本独特の個の概念を考察している。松本の役者も、無名的(アノニマス)で、ユニフォームを身に着けており、機械オブジェのように共時的モーションで動いているように見える。彼らはユニバーサルな世界画画家のパレットの上の色であり、絵筆の一塗りなのである。
清水の軍需機器はしかしながら、戦いを仕込まれた人間の消えた顔の正体を明かす。役者は表現を意図して演じるのではない。それらは辱められたヒューマニティーや、利用価値を失って機能不全と化し、濫用されている身体の覆いの表現なのである。
松本と反対に、清水は彼の「イメージの演劇」でその一歩先、「身体の演劇」へと、呼吸し出血し、汗をかいている身体へと進んだ。それは美醜の表面に固執するのではなく、身体の内側を外側に折り返そうとし、その疎外とデフォルメを残酷に暴露するのである。
「批判するために、私は現存する(演劇、パフォーマンスの)構造内に、機能的混乱を造り出して、内的崩壊を引き起こしています。」『バイバイ/未開へ』では、一人の男性が鏡の前に立つが、それによって清水信臣は我々の前にも鏡を置く。男性は独りよがりに、西洋文化の業績であるアルファからオメガまでのスペルを言い、通りすがりに戦いを企て、平然と叩き、続いてゆっくりマントを着、荷物をまとめて一度去り、ゆっくり無傷で戻ってくると、また服を脱ぎ、舞台上の戦争や生存競争がまるで彼には関係ないかのように落ち着いている。『バイバイ/未開へ』では、ほとんど目立たない冷笑する姿が端の方に。資本主義的力の黒幕、政治暴力を濫用するシニカルな抑圧的人物、しかし西側の文化過大評価の糸のもとでじたばたする悲しいあやつり人形。ボードリアールが彼のエッセイ"L'autre ailleurs Figures de l'atte'rite"の中で記述しているように。
日本や他の文化は我々のものとは反対に、起源や信憑性のウイルスにおかされていないという。我々は、我々の文化は他の影響を受けずに自らの実在や実態を我々自身が創造したものだという原則を起点としている。「我々を苦しめた根本的な先入観です。」全ては我々自身を起点にしているという確信は「我々に起こったこと全てに全責任を取る」ということを強い、「そこに我々の悲惨が存在し、それが我々のそして西洋の不幸な運命なのである。」劇団解体社は、西洋のこの開いた傷口に、曲がって痙攣した指を静かに置くのである。
New York
Columbia Daily Spectator, Oct.2001
The Violence of the Body Globalism in Kaitaisha Theatre
Marie Yereniuk
衝撃的であり、時に心を乱される劇団解体社のパフォーマンス『バイバイ/未開へ』は娯楽というよりも、むしろ強烈に惹き付けられる空間だ。その作品は、ダンス、演劇、電子音楽、そして、早送りの戦闘シーンのビデオ映写を合わせたもので、異質な、そして暗示的な雰囲気をかもし出している。この劇団は動きそのものを通してより直接的な形でのコミュニケーションを主張しているため、言葉によるコミュニケーションはほとんどない。
上演に先立ち、東京大学の内野助教授は、劇団の演出家である清水信臣について「彼は決してアーティストなどというものではない」と語った。「彼は観衆にただの審美的な喜びを与える事には興味がない。」彼は人間の身体を、身体の内外に存在する暴力と破壊とのコミュニケーションの道具として表わす事に興味があるのだ。
清水のこの作品への創作欲を反映した「身体の暴力」はそのパフォーマンスの中にうかがわれる。断章の連続で構成されているその作品は薄暗がりと静寂の中で始まる。1人の女性がレオタードの下半身の部分だけを身につけて観衆の前に立つ。彼女の全身は張り詰め、激しい振動に震え、機械かロボットを思わせる。清水の作品は人間の身体についてであるが、中嶋みゆきの震える胸と振れる手は人間のものとは思えない。
その女性は、観衆から顔をそらしてじっと動かずに立ち尽くしている男性とともに舞台に立つ。彼の静けさは彼女の暴力的なまでの震えと好対照をなしている。二人は身体的にも感情的にも断絶している。パフォーマンス後の清水のコメントは、その部分を作品の文脈にそって理解させてくれる。その女優の動きは「自己と他者の境界を揺さぶるものであり、その境界そのものは崩壊している」のだ。境界線は消えてなくなりはしないけれども。
この比較的静的な部分はその後の動きの噴出のような部分へと続いていく。戦争のビデオ映像(偵察機群、爆発、そして流血)は不調和な電子音楽と合わさっている。それは衝撃的に残忍なムードをつくり出している。動物のような身体は舞台上を転がるように動き回る。その身体は肉体の狂乱の中でお互いにタックルしあい、取っては返している。それは、背景となっているイメージを象徴的に表現している。内野は「恐怖にかがみ込み、恐怖に苛まれながら、彼等の身体は戦争の機械としての役割を果たすようになっていく」と説明している。個人と個人の暴力は全体に浸透したテーマだ。白人男性が金箔の帽子を被った日本人女性を平手で叩く場面がある。彼女は右手にナイフを持ってはいるが、その迫害者に対して報復しようとはしない。背中を叩く音は彼女の痛々しいうめき声よりもはるかに大きい。内野はこの場面を日本の植民地化の歴史を彷佛させるが、解釈は観衆に任せられるものだと述べた。清水は「私がしようとしている事は一つの状況の提示だ。」と強調した。「観衆の思考を刺激したいのだ」と。
内野は「(清水は)彼自身に問いかける事、そして観衆に疑問を投げかける事しか出来ない」と説明した。「彼はあまりにも挑発的だ。我々の感情に対しても、そして心情に対しても。」清水とパフォーマ−は、死や残忍性を扱う現代日本のダンスの形態である舞踏で鍛えられてきた。清水はまた、プロットよりも役者の身体を強調する方式をとる1960年代アングラ(アンダーグラウンド)演劇に影響を受けている。しかしながら、内野によれば、解体社はそのジャンルには完全には当てはまらない。彼は、清水は「稀にみるグローバリスト」である一方、アングラ演劇運動は「日本人らしさの捏造」であるという。清水の作品は人間についてであり、日本人についてではない。つまり彼は国際的に、そして文化の枠を越えて、考え、行動し、演ずる事ができる人なのだ。
『バイバイ/未開へ』は戦争、大量虐殺、断絶といった普遍的な衝突を演じている。動き、静寂、そしてサウンドを通して、清水のコレオグラフィはパフォーマンスアートの概念を再編成し、我々の住む世界に疑問を投げかけ続けるように喚起させてくれる。アートは常に美しいものなどではなく、常に示唆的なものなのである。
Culture Finder, Oct.2001
性・身体・戦争群集、日本ー解体の演劇
Randy Gener
9月11日のニューヨークにおける世界貿易センターテロアタックから一週間もたたないうちに、東京を拠点とする解体社が、荒々しく肉体的かつ戦争に引き裂かれた作品、『バイバイ/未開へ』を上演することに時期尚早すぎるという演劇批評家も必ずいるであろう。多分。
確かにニューヨークでは、人々はまだ神経過敏になっている。アメリカ人の魂を悪寒で震わせた暴力、痛み、恐れは、観客を不快・不安にさせるのかも知れない。しかしながら、10月4日〜6日にJapanSocietyのプロセニアム舞台で劇団解体社がみせた演劇パワーは、勇気があり無視できないものに感じられた。
アメリカのコマーシャル演劇が、世界的闘争時に戦争や暴力を直接的に扱った作品を敬遠するのに対し(例えばブロードウェイは、ステファン・ソンドハイムの『暗殺者』の再演を延期した)、不可能に挑戦し、言葉にできないことを言葉にし、言えないことを言うことが、ノン・コマーシャル演劇の必要任務になっている。これが、洞察的な清水信臣の率いる解体社の社会政治演劇がニューヨーク・デビュー公演で行ったことであった。
うずくまる身体、ふるえる肢体、変性意識、原子力爆弾といった、あふれる程のむき出しの自虐的イメージとともに、『バイバイ/未開へ』は、最も現代的な国際的演劇を普遍化する衝動を提示した。言葉を回避し、ビジュアルを選ぶことで、言葉では何度やっても表現に失敗することをイメージで表現しようとした。
コンテクストを取り除き、作品のテキストは超道徳性やニヒリズムといったテーマ(WORK NOT、 BUY NOT、Hold a new weapon)を喚起させた。『バイバイ』には、ネガティブなアイディアを吐き出すという浄化効果がある。
パフォーマンスそのものは、あくまで「演劇」といっているが、実際はダンスの精神により近いものがあった。白人男性が灰色に塗った女性の背中を何度も叩き、打つ毎に日本の天皇の名前を呪う。美しい体型のアジア男性ダンサーの肉体は、作品の始まりに光の中でエロティックに表現され、皮膚が真っ赤に腫れ上がるまでドラムの音を出すように手で執拗に腿を叩き続ける。2つの世界大戦とベトナム戦争の映像が背景で流される中、暗い舞台上を肉体の固まりがよろよろと横切る。
『バイバイ』は不穏で張りつめたイメージをありありと提示する。純真に近い窮境の暗黒郷的ビジョン。ペースは意図的に作られている。解体社の演出家である清水信臣は、ヨーロッパツアー開始当初の『バイバイ』は、もっとアグレッシブでアナーキー的だったとアフタートークで語った。ヨーロッパの観客の反応を見て、爆発的エネルギーを避け、よりゆっくりで透明かつ流動的な演出に変えたという。
プログラム上では、清水はアバンギャルド演劇の歴史に精通していることを示唆している。
彼はアントナン・アルトーの"Theater of Cruelty"、ボニー・マランカの"Theater of Images"あるいはポスト大戦世界での伝統となった舞踏や、彼のいうところの、「現在の日本のトレンドである <生の演劇>」に精通している。彼は、「この作品は身体の演劇であり、破壊欲求に満ちています。その意味では、それは<死の演劇>といえます。」と書いている。清水の学問的傾向はみごとである一方、作品を損なっている面もある。アフタートークでは(通訳的問題に耐えたにもかかわらず)彼のポストモダン演劇を明確化するのではなく、曖昧感、神秘感を残した。
だがありがたいことに、作品が雄弁に語っていた。『バイバイ』は、演劇の過去の意識を明示し、将来の扉を開く個人的な道を達成する、清水の大変な努力を表象している。その中で、執拗にアバンギャルドな日本の劇団が、新たな表現方法を象徴的、演劇的に模索していた。それは20世紀社会のテクノロジー勢力が、いかに人間を植民地化し、暴行し、奴隷化し、襲撃しているかを示唆した、壮烈に露骨な作品である。それは、我々の身体への、繰り返されしつこく容赦ない攻撃に対処しようとする人間の苦労を演劇化していた。
『バイバイ』がパフォーマンスとして心を乱す作品であるなら、それはそれでよい。結局、挑発することは、真のヒロイックな演劇にとって必要な機能なのだ。さりげなく抽象的に、『バイバイ』は破壊された世界貿易センターの重みの下でつぶれた人間の残骸を演劇化している。大きな戦争マシーンの破片となったねじれた身体。『バイバイ』は、決して説教めかしたり単純化することなく、純粋な抗議のこぶしを振りかざしている。『バイバイ』は、反戦演劇をその黎明期の純粋状態に戻すことで、その比類ない強さを引き出したのである。
The New York Times, 23/Sept. 2001
Action Speaks Louder
Carol Martin
男は挑発の色も見せずに、繰り返し、激しく、身じろぎもしない女の背を打つ。灰色にペイントされた彼女は、奇妙な冠をかぶっている。殴打の度に彼女から、日本の天皇の名前や、アッシリア、ハンガリー、クリミア、朝鮮などの地域の名前が吐き出される。時々ランダムに提示される英語のセンテンスだけが彼のテキストだ。観客の忍耐力を大幅に超えながら、この場面はその始まり同様に非儀式的に終わる。男は、女が立ち去った後、今度は激しくリズミカルに、倒れるまで自らの両腿を打ち始める。パフォーマーは奇妙なまでに受動的であり、まるで彼/彼女ら自身より強大な何かの力を拝受するかのようだ。
これは10月4日、ジャパン・ソサエティで開催される日本演劇シーズンの幕開けを飾る清水信巨演出、劇団解体社の『バイバイ/未開へ』のワンシーンだ。今シーズンは解体社に加えて、アジア・パフォーマンス・フェスティバルや実験演劇の演出家として著名な鈴木忠志の作品が紹介される。
「身体はフィクションではありません」清水は東京にある彼の稽古場にて行ったインタビューでこう答えた。「身体は文化的構築物であり、現実のドキュメンタリーの一形態なのです。」清水の演劇において、パフォーマーは「shintai」、つまり身体表現を ーこれは舞踏として知られる日本のダンスの本質でもあるのだがーエモーショナルな意味よりむしろ身体的な意味を生み出す為に用いている。清水にとっては、運動とジェスチャーから創られる演劇こそ、身体が生み出す様々な意味を情報テクノロジーに支配された世界から救う唯一の術なのである。
「今日、身体は難民である」と彼は断言する。
清水の演劇は、日本の世界経済支配は一時的なものだったことが明らかになった1990年代に出現した。グローバリゼーションは、ある人にとっては、ユートピアへの二度目のチャンスに映っているようだ。新たなアイデア、政治的視点、諸々の経験やアートは、グローバル・ワールドにおける自由主義ムーブメントの製品として機能していた。しかし、これらは実際には起こってはいないのです、と清水は言う。その代わり、急速に相互に繋がれたネットワークによって縮小されていく世界は、同質性を再生産しているのみであると--つまりアメリカ化された世界文化という、どこにおいても同じ様な免税店が並んでいるような終わりなき連鎖。閉所恐怖的な現象が今起きているのだと清水は言う。そんな状況の一つである「ヒキコモリ」と呼ばれる現象では、何万もの日本の若者が社会から引き篭もり、働くことも通学も、そして家から出る事すらも拒絶している。
勝利の後の敗北感は、19世紀中頃から日本において繰り返し論じられてきたテーマである。日本の演劇批評家である内野儀は、1995年に起きた阪神大震災とオウム心理教の東京地下鉄ガス襲撃事件が、日本人に原爆による敗北の記憶を呼び起こしたと指摘する。代わりに目立ち始めた外国人の存在は、一部の日本人を外国人排斥運動へと導いている。これらの狂信的愛国主義や人種的不寛容さはまさに劇団解体社がその極端なまでのフィジカルな演劇で問い直すものなのだ。
支配と非支配、強制、制限、サディズム、マゾヒズム、ファシズムは、清水の演劇において、身体の行為として繰り返し探求されている。マスクを被り上半身裸の女性が胸を押さえながら始終飛び跳ねる、パフォーマーたちがお互いに見た限り全力でクラッシュする、生きる望みを失ったさまよえる人々がそれでもユートピアを探し求める、そんな場面を彼は繰り返し提示するのだ。清水の演劇では、英語のみが使われる ー日本人にとって認識できるが解読不可能な言葉。コミュニュケートを図ろうとする試みは、絶えず暴力として帰結する。この世界において、言葉でなにか意味のあることを表現することは不可能なのだ。「英語と暴力、この二つこそ世界が共有しているものなのです」と清水は苦々しく語った。
清水は複雑な思考を語ろうとする演劇を生み出すことがいかに難解であるか、非常に意識的である。「唯一の現実、真実を伝える可能性を秘めた残されたドキュメントは、身体です。演劇における身体こそ、複雑で矛盾に満ちた21世紀の生の経験を伝えうる唯一の媒体なのです。」身体が語る真実が一体何であるかを語ることは、容易ではない。体は嘘をつかないという考え方は、心理的な真実ではないだろう。それは入念に練られた劇的な台本の語る真実でもない。清水の演劇にある本能的なシナリオは、支配的な世界関係の直中で悪化している個人主義、地方のアイデンティティ、国家アイデンティティを描き出しているのだ。
「カンバス」(劇団の稽古場)のある湯島は、古くから東京の下町だった。有名な湯島天神も、東京大学のメイン・キャンパスと同様、近所にある。何千人もの学生が試験の成功を祈願するために神社を訪れ、小さな木の板に願い事を残していく。湯島は流行発信地でも文化地区でもない。そこは現代生活が伝統といったもので活気づき、学生と居住者が、古くから続いている小売店や下宿、安食堂、そして言うまでもなく神社といった場で共存している場だ。
清水の演劇的感性は、解体社が今や世界ツアーのマーケットに乗り出していることから分かるように、この地区の印象を越えたインパクトを持っている。彼の作業は舞踏の始祖である土方巽のみならず、ピナ・バウシェやロバート・ウィルソン、タデウシュ・カントールの影響を受けているように見える。ヨーロッパでは、ベルギーの演出家・ヤン・ファーブルともしばし比較される。劇団解体社は、ジャパン・ソサイエティの他に、ドイツと英国の諸都市でもツアーを行う。2002年にはメルボルンで開催されるネクスト・ウェイブ・フェスティバルにも参加する予定である。
1985年に創設された劇団解体社は、オルタナティブスペース、映画、視覚芸術、インスタレーション、音楽、そしてダンスの持つインパクトを演劇において実験してきた。清水は作業を、人種差別、ジェンダー関する偏見、性役割に潜む矛盾、政治的虚偽に対するラディカルな批判として捧げている。清水の目的は、まさに芸術を通してこの世界を変革することなのである。彼は劇場を個人と集合体、隔離と威圧の間の緊張関係を探索する理想的な手段として考えている。
解体社の悪名高き殴打の場面は、1996年のザグレブ公演では騒動を引き起こす直前にまで至った。観客はまず口笛を吹きはじめ、次第にその暴力をやめさせようと「Stop It!」と叫んだ。アジテーションはエスカレートし、ついには最前列に座っていた男性が立ち上がり、犯罪者たるパフォーマーに掴みかかり、ひっくり返した。しかしこの阻止行動を歓迎する観客の反応にもかかわらず、パフォーマーは立ち上がり、再び女の背を叩き始めたのである。内戦直後のザグレブにおける観客はこれにより、ある美的な舞台を妨害したところで、象徴的な意味においても、世の中の暴力を止めることにはならないのだと理解したのだ。
より地域性に直結した見方をすれば、清水が暴力の問題を日本の天皇の名前と関連づけたことは、論議を呼んだ小泉純一郎首相の靖国参拝の問題を想起させる。日本の戦没者を奉る神道の碑物は、天皇崇拝や軍国主義と密接に繋がっている。日本人を含めた多くのアジア人にとって、靖国参拝は第二次世界大戦の惨禍を認識拒絶していることを意味する。中国南京侵犯や、韓国人を筆頭に多くの女性が日本兵のために性奴隷として無理矢理働かされたことは、その他の様々な事件と同様に未だ生々しい。20人の若い韓国女性たちは、小泉首相の参拝に抗議するために、自傷暴力の形で小指を切り落とした。
ザグレブにおいて芝居は勝利した。それ以後は中断する事なく、パフォーマンスがやり遂げられたのである。しかし目の前の舞台で繰り広げられる残虐な攻撃に対する諦めは、日常生活において増加している暴力への無力さにどこか似ていると、パフォーマーも観客も実感させられたに違いない。清水は言う「生身の身体に宿る暴力の攻撃性を、私はこの作品で自殺させたのです。」